有田の歴史
有田で磁器が初めて焼かれたのは江戸時代初期だが、その年代はまだ確定されていません。
16世紀末、豊臣秀吉による慶長の朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れ帰った陶工の李参平によって、有田泉山に磁器原料の陶石を発見したのが有田焼の始まりとされています。このとき白川天狗谷窯で焼かれたものが、日本で最初の磁器です。通説ではその年代を1616年(元和二年)とされています。
有田焼の発展は、オランダ東インド会社による東洋貿易に依存していました。当時インドネシアの今のジャカルタを拠点に、中国景徳鎮の磁器を集荷し本国で売りさばいていた東インド会社は、1644年の中国明王朝の滅亡に伴う混乱で景徳鎮生産量の減少をきたし、貿易磁器を他国に求めていました。
磁器生産が軌道に乗りつつあった有田焼が、輸出され始めるのは1650年(慶安三年)からでした。1670・80年代には柿右門様式の爛熟期で、高い品質の陶磁器が長崎オランダ商館を通じてヨーロッパに大量に輸出されるようになりました。この頃景徳鎮復興のきざしが見られ、清朝最初の官窯が設置される。有田焼は、景徳鎮磁器との価格競争の時代をむかえます。徳川政権下1715年には、信牌交付による私貿易の禁止や取引額の制限等の鎖国政策と共に、有田焼は貿易磁器競争から敗退することとなりました。
現在、伊万里・有田焼と呼ばれる理由は、有田で焼かれた磁器が、伊万里津を積み出し港としたためで、このことから伊万里焼と呼ばれ始めました。
沿革
江戸時代初期にすでに磁器生産を行なっていた有田焼は、江戸時代を通じて国内・国外に広く交易され、佐賀藩の大きな収入源でした。幕末に、生産の中心であった有田皿山地区が大火にみまわれ、死者多数人家のほとんどを焼失しました。明治時代に入ると再び復興し、ワグネル等を迎え製陶の学理を学び、伝統の技と技術改良によって再び貿易陶磁器の生産を始めます。資本を出し合う合本組織の製陶会社『香蘭社』が1875年(明治八年)に創業されました。
昭和に入ると、生産規模の大きな瀬戸や美濃地域の陶磁業に価格面で押され、磁器生産も一旦縮小しましたが、その後昭和30年代から40年代には生産量・売上共に大きく躍進することになります。
特徴
磁器胎に呉須顔料による青一色で描かれた染付から、色鮮やかな上絵付けまで、主に洋食器を中心に幅広く生産されています。様式に古伊万里・柿右衛門・鍋島・金襴手等があり、なかでも柿右衛門様式や古伊万里様式の磁器は、その美しさでヨーロッパの人々を魅了しました。